廃村に残る湯川王子社
2013年5月13日

小広王子〜発心門王子

山のみち

世界遺産の熊野古道・中辺路を歩きます。起点の滝尻王子から熊野本宮大社までは約40キロ。レコーダーを片手に、時には音を録りながらの山歩きです。千年の歴史をもつ山の道で、見える景色と聴こえる音。

早朝、リュックを背負って小広峠のバス停から歩き出す。
かなりハードな峠道らしいが、山歩きの楽しさもわかってきたので足どりも軽い。

車道から少し離れると人家も見えず、あたりは鬱蒼とした森。
小広峠は狼がたくさん出没したところで、そもそもは「吼比狼(こびろう)」の字が使われていた。それが小広になったのだとか。

深夜、狼が一斉に遠吠えをして、山々にこだますることがある。里の人たちはこれを「千匹狼」と呼び、「山の神(狼)は吉野の山上ヶ岳にお参りに行くんやな」と思ったそうだ。今はもちろん狼と出会うことはないし、遠吠えの声も聴こえない。

川に沿って少し下っていくと、熊瀬川王子跡で玉石を発見した。車道から少し離れた山中なのに、榊の緑が瑞々しい。こんな場所に、誰かがお参りに来ているのだろうか。丸い石に霊力が宿るという古代の信仰が、脈々と受け継がれている。そう考えても、よいのでしょうか。
(その後知ったのだが、熊瀬川には明治22年の水害時まで集落があったそうだ)

熊瀬川王子跡の玉石

熊瀬川王子跡の玉石

そこからは上り下りが続く、きつい道。草鞋(わらじ)峠の案内板には「この付近の山道は、蛭降(ひるふり)峠百八丁といわれ、山ビルに悩まされたところ」と書かれていた。熊野古道はかつて、豊かな照葉樹林の森が広がっていたので山ビルも多かったのだろう。

川を渡る手前で、残念ながら通行止め。2011年9月に紀伊半島を襲った台風の爪痕だ。山間のあちこちで土砂崩れが起こり、現在でも一部の古道ルートが復旧されていない。仲人茶屋跡〜蛇形地蔵までは4キロほどの迂回路が設けられていた。この迂回路もつづら折りで初心者にはしんどかったが、眺めはよかった。

迂回路からの眺め

迂回路からの眺め

アップダウンが続く峠道

アップダウンが続く峠道

下から追い上げて来るのは、なぜか外国人ばかりで「ビューティフル ソー・ビューティフル!」と言いながらにこにこ顔で迫ってくる。そして息も切らさず「コニチワ〜」と。私は気力も体力も語学力もないヘタレなので、数人に追い抜かされる。その後も山道で出会うのは外国人ばかり。ここはサンティアゴの道なのですか?

ゆっくり歩いて道湯川の集落跡に到着した。こんな山奥にも集落があったことに驚かされる。(道湯川の子どもたちは義務教育も免除されていたそうだ)
住民たちが移転し、廃墟となったのは昭和31年のこと。その後、里の産土神であった湯川王子社の社殿も倒壊していたが、昭和58年に元住民たちによって再建されたという。
「ここには状況に追われて家郷を捨てざるを得なかった人々の望郷の熱い涙がこもっている」と、作家・宇江敏勝さんが『熊野中辺路 歴史と風土』に記している。

廃村に残る湯川王子社

廃村に残る湯川王子社

おそらく手水鉢

おそらく手水鉢

神社の前に腰掛けて休憩していると、外国人のカップルが苔むした手水鉢を不思議そうに覗き込んで通り過ぎて行った。私は日本人のはしくれなので「望郷の熱い涙」に想いをはせてみる。
集落跡には清らかな谷川が流れていた。変わらないのは、この音だけかも。

廃村を流れる湯川川

廃村を流れる湯川川

歩き出したらまたしても、登り道。息を切らして登っていくと、いきなり車道に出てしまった。三越峠のきれいな休憩所で一服して、今度は下り。しばらく行くと、廃屋や墓地、棚田の跡などが現れた。もとは道ノ川という集落だったが、昭和48年に全8戸が山を下りて本宮地区に移転し廃墟となったそうだ。崩れかけた家には、生々しく置かれた一升瓶がひとつ。

道ノ川集落の廃屋

道ノ川集落の廃屋

その先、大規模な土砂崩れの現場に遭遇。土砂や倒木をよけて、仮設の道が作られている。そろっと歩き出したら急に強い風が吹いた。崖っぷちで生き残った杉の木々が、頭上で大きく揺れてきしんだ。ぐっぉーんという鈍い音が恐ろしくて小走りで逃げた。音、録れず。

古道脇の土砂崩れ現場

古道脇の土砂崩れ現場

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文:北浦雅子