炭焼き職人 宮本有市さん
2013年11月23日

宮本有市さん

熊野びと

山の暮らし、森の仕事、集落の祭、民話や伝説、熊野に暮らす人々に聞きたいことはたくさんあります。
みちの途中で伺ったお話を、音声とともに伝えていきます。

大雨の朝、山あいの県道を抜けて秋津川の集落を訪ねました。
紀州備長炭記念公園の裏手にまわると、大きな炭焼き窯に赤々と火が入っていました。

宮本 有市(みやもと ゆういち)さん/1936年、田辺市秋津川に生まれる。炭焼きは祖父の代から3代目。中学校を卒業して本格的に焼きはじめ、60年近くとなる。紀州備長炭発祥の地・秋津川で最年長の製炭士。現在は紀州備長炭記念公園の炭焼き窯で、後継者の育成にも力を入れている。

木を伐り、炭を焼く

黒炭は窯で焼いて窯のなかで密封して火を消すから真っ黒になる。火をつけて3日もすれば炭になるよ。備長炭は焼き方が違うからな。黒炭よりだいぶ長い時間をかけて、窯の中でゆっくり蒸し焼きにして、窯の外に出して灰をかけて火を消すから白くなる。今はウバメガシしか焼かんけどな、昔は何でも焼いてつくったもんや。

昭和25年くらいまでは、炭焼きの家はようけあった。200軒近くあったやろ。山の取り合いになって、親父は新宮、勝浦まで焼きに行ってたな。僕は遠いところには行ってない。
ウバメガシのある山はみな個人持ち。炭焼きは山主さんと交渉して原木を買っていく。一山いくらで、自分の見積もりで買うわけや。僕らは山を買うことで、原木を伐ることができる。次はどこの山か。あの山、分けてくれたらいいなと持ち主に相談する。山主さんが職人に頼む場合と、職人が山を買う場合とがあるが、昔から山主さんは炭焼きに山の木を売って焼いてもらうものやった。

炭焼きが多かったときは、みんなで山に行って、細い木を伐って焼いたが、今は焼く人が少なくなったから、木はそのまま大きくなってるよ。木が大きくなるまでに30年くらいかかるな。禿山になってたら50年くらいか。細いままの木を残しておくと、10年から15年で太くなる。

昔は、手鋸(のこ)で伐ってたな。雪の降った日は雪をはらってから。チェーンソーが出てきたのは、戦後、昭和30年頃か。僕は、昭和35年くらいから使ってたが、昔のチェーンソーは振動が大きく、振動病になることが多かった。ここ30年くらい、僕には木を伐ってくれる人がいるから楽になったけどな。今、大きな木は4つ、6つ、8つに割る。

炭焼きの原木

便利の悪いところにある原木は、細い道を行って持ってくるのが大変でな。木馬道(きんまみち)という木馬のソリをこさえて、伐り出した原木を上から落として運ぶこともあった。けど僕はあまり木馬はつくらんで、山道を担いで運ぶことが多かったよ。木を伐るのも、運ぶのも、炭焼くのも、どれも大変やった。

山への信仰

昔は、みんな山に入って小屋がけしてたよ(小屋がけとは、原木に近い山のなかに炭窯を造り、炭窯のための小屋を建てること)。車が入る道がないから、小屋がけしたところまで歩いて入る。いい道ならいいけど、曲がりくねった道、遠いところもあった。僕も20年くらい前までは小屋がけして、一か所で2年、長くて3年くらい、山の中に入って。そのあとは道の端とか、車が入るところで焼いてたな。

山には崩れた窯跡が残っているもんや。昔、誰か他の人が焼いた窯の跡。そこの木が大きくなったら、またその窯に戻ってきて、ちゃんと整えて使うわけや。山で窯をつくるとき、その場を見る。できるだけ昔からある窯を使うよ。どこの山にも、岩ばっかりのとこがある。窯は土のあるところ。岩があったらあかん。岩の層から水が来る。いい炭を焼くには窯が大事。大雨が降って水が来る窯の炭はあかんな。乾きすぎても悪い。適度に湿度もいる。小屋がけして雨水がしみるくらいが炭にはいい。今、便利の悪いところに入って、小屋がけする人はほとんどないわ。けど今は山の中でなくても、窯さえよければ、あとは炭を焼く技術やな。

炭を焼く宮本さん

仕事が休みになるのは山祭りの日や。山の神さんを祀る日は、旧暦の11月7日。山仕事をする人はみなやってるよ。炭焼きはみな個人的にやってたな。僕個人では11月7日にするけれど、ここでの祭りとしては12月の一週目頃の日曜日。みんなで餅を持って来て、窯の前に、作ったぼたもち、作らんかったら買ってきて、酒一升と一緒にお供えする。山祭りの日は、山で木も伐ったらあかんいうて、木も伐らんのや。昔は炭焼きが集まって飲み食いしてえらかったが、今は供えの儀式だけになった。

紀州備長炭の澄んだ音

焼いた炭は問屋にもおろしてたけど、今はこのあたりの農協に出荷する。売り物には等級がある。三種類くらいに分けながら拾っていく。よい炭はひびのない、よく締まった炭。硬いからいい音がする。小さく割れたものはあかんな。飾りとして売るものもある。旅館とかに立てておくような、ちょっと形がいがんだようなもの。いつもできるとは限らんな。いい窯だったら、そのまま焼けるけれど、折れたら終わり。窯さえ順調だったらできるよ。

炭の音か。そら、ええ音するでな。こうやって発砲スチロールの上に並べて、叩いてみたらわかる。音階も違うよ。長さによって違う。これで皆、炭琴(たんきん)作りよる。これだけあっても、炭琴に合うのはほんまに少ないんや。

炭琴

親父と母親の苦労

昔は炭の需要も多かった。黒炭もどんどん焼いてた。終戦後は、車の燃料にもなって。僕が小学生の頃、朝、火をおこして、木炭バスを走らせてたよ。
小さいときから小屋まで連れられて、親父と一緒に窯のそばで寝ることがしょっちゅうあった。窯で遊んで、泊まるときは一緒に泊まって。けど学校もあったから小屋に住み込まず、自分の家から通ってた。親父も製錬する晩に仮眠するだけで、ほとんど泊まることはなかったな。

僕が5歳くらいだったか、母親が妹を背負って雪道でも山の中を歩いて行ったことがあったよ。親父は木を伐るし、母親は窯へ木を寄せたり、焼きあがった炭は、母親も二俵くらい運んでた(炭の一俵は15キロ)。僕も小学6年生くらいには炭を背負って山の中を運んだもの。女の人でも二俵、三俵も担いで運ぶ人もいたな。近所の集落の人に日雇いで運んでもらうこともあった。昔はそういったことをした女の人も多かったと思うよ。
親父は、僕が継いでくれるとは思ってなかったやろ。親父は60歳くらいまで炭焼きをしてたが、やめてからは他の山仕事に行っていた。

妻との二人三脚

僕は20歳くらいで親父と離れて、自分で炭を焼きはじめた。家内と一緒になったのが24歳のとき。それから二人一緒に、あちこちの山のなかで焼いた。一番はじめに焼いた窯は、近くにおじさんもいたから、教えてもらいながら。他の人のやり方も学んだよ。
儲かった時期もあったが、いいときばかりではなかった。仕事しやすい山と、仕事がしにくい山がある。足場のよいところもあるが、岩山だと苦労する。それでも続けな。

家内とは二人三脚でやってきた。窯から出して寄せたら灰をかぶせるのは家内の役目。だから家内も炭を選別できるようになる。二人で切り盛りし、四六時中一緒。やっぱりけんかばっかりやったな。子どもは二人。孫も曾孫もおる。もうすぐ80才になるから、あと2~3年もできるかどうか。現役としては、僕以上の年齢の人はおらんな。

炭焼き人生は苦労ばっかり。体力的に苦労やった。けど人に使われず、自分が親方でやっていける。趣味は釣りに行くことだけ。気ままに休みは取るが、まとまった休みを取ることはないよ。窯から離れて3日も休むのは病気のときだけ。 窯は火をつけてないとあかん。冷めたらあかん。

炭窯

これからの炭焼きたちへ

炭焼きはそんなに儲かるものでもないが、今も炭は少ないくらいや。炭焼きをしようと思うと、最初はお金もいる。一人前になるには、2~3年は苦労する。お金になるまでは自分の持ち出しや。一からはじめて、出荷できるように箱に詰めるまで、真面目にしないと、3年も5年もお金にはならん。僕らも苦労した。これから炭焼きをしようとすると、原木を伐ってくるのも、窯に火をつけるのも簡単にはいかんな。自分一人では苦労する。しくじったら、火事になったりする。けど、ここで焼けば、火をつけて、窯の調子もみて、教えてあげることもできる。

今、田辺市に炭焼きは、他から来た人も入れて、14、5人くらいか。東京から来た人が、ここで焼きはじめてるよ。元カメラマン。先日も若い人が見に来てたな。 来年からまた新しい人がやってくるよ。

炭焼きの宮本さん

紀州備長炭の原料はウバメガシ。このウバメガシを高温で焼ききり、堅く締まった紀州備長炭は、白炭(はくたん)とも呼ばれ、匂いが少なく、抜群の燃焼力を持つ高級品とされています。田辺の炭問屋、備中屋長左衛門(備長)が江戸や大坂に売り広めたと伝えられています。
田辺市の「道の駅紀州備長炭記念公園」には、木炭の歴史と文化、紀州備長炭について学べる「紀州備長炭発見館」や「加工体験館」など、充実した施設が並んでいます。

編集・撮影 竹内利江