中辺路の起点、田辺にて
5月の中旬、曇天の日にちょっと田辺へ。和歌山市からは「特急くろしお」で70分、車なら高速で90分ぐらいの距離だ。
町の玄関、JR紀伊田辺駅は1932年に建設された木造2階建てで、小窓付きの赤い三角屋根がおしゃれ。なのだが、まもなく解体されて新たな駅舎に建て替えられるという。「世界遺産・熊野古道の玄関口にふさわしいデザインにする」と新聞に書かれていたが、妙に力んで、残念な駅舎になったらどうしよう…と、ため息をつきながら名残惜しく撮影する。
ここは紀伊半島の南西に位置し、駅から海まではまっすぐ一本道を歩いて約15分。
古代から水陸交通の要地であり、中世には熊野水軍(熊野海賊)の拠点、そして江戸時代に入ると田辺城が築かれて城下町が整備された。海や山の豊かな産物が取引され、商人や武士が行き来した町は、熊野参詣への入り口でもある。多くの旅人たちが通過していった宿場町だ。
かの南方熊楠先生も、文化のたまり場のようなこの町に吸い寄せられるように住みついた。
熊楠が暮らしたのは城下の一角にある屋敷町だが、下の写真には熊楠邸の屋根もちらっと見えている。
紀伊半島を南下してくる熊野古道・紀伊路は、田辺の町に入ると二つに分かれる。ひとつは潮見峠を越えて湯の峯方面に山中をゆく中辺路、もうひとつは、熊野灘に沿って串本、那智へと至る大辺路である。
熊野古道と一口に言っても時代によってルートは変わるし、小栗判官のような人々が歩いた地図に残らぬ道もある。人目を避けるような裏街道は小栗道とも呼ばれたが、そういう道が忘れ去られ、世界遺産の道だけが唯一くっきり残ってゆくのは味気ない。
駅前の商店街を歩いて北新町に向かうと、高さ2メートルほどの道分け石が電柱のそばに現れる。中辺路と大辺路の分岐を示す道標で、刻まれている文字は「左 くまの道」「右 きみい寺」。裏へまわると「安政4年 丁己秋再建之 大阪西道頓堀炭屋町 石工 見かげや新三郎」と読み取れた。
ここまで書いて、ふと気になったので「見かげや新三郎」で検索してみたら、驚いたことに製作実績がいくつか出てきた。安政3(1856)年に大阪市の住吉大社の石燈籠、文久3(1863)年に神奈川県平塚市にある真田神社の鳥居、享和元年(1801)に愛媛県八幡浜市の金刀比羅神社の鳥居、天明4(1784)年に岡山県瀬戸内市の大嶋神社の狛犬!!
例えば17歳で大嶋神社の狛犬を造ったとすると、真田神社の鳥居は新三郎さん96歳の仕事か。ちょっと無理があるな。
それはさておき、熊楠邸の前に立つ。
坊主頭の熊楠がぬっと出てきて近所の風呂屋に歩いて行くところ…を、私は楽しく妄想する。そして熊楠のエピソードをあれこれ思い出しながら田辺の町を歩くのだ。
夜、女中さんに郵便を出してきてほしいと頼んだ熊楠が、「若い娘が夜道を一人歩きするのは危ない」と後ろをついて行ったという話とか。
次に向かったのは、熊野水軍や熊楠さん、武蔵坊弁慶にゆかりの深い闘鶏(とうけい)神社である。白河法皇が熊野三所権現をこの地に勧請したので、こちらに参拝すると熊野三山にお参りしたことになるらしい。
田辺まで紀伊路を歩いて来るだけでも難行苦行であったはず。本宮へ至る中辺路はさらに険しいので、闘鶏神社で「熊野に詣でたこと」にして引き返す人々もいたそうだ。歩く気まんまんで来たものの、あまりにきつくてリタイアした御仁も多かったのではないかと推察する。
駅の近くに戻って、味光路を覗く。ふたり並んで歩けないほど細い路地には、200軒を超える飲食店が狭いエリアにずらりと並ぶ。車道からは見えないので、初めて足を踏み入れた時はびっくりした。しかも新鮮な魚が安くて美味しいし、田辺の人たちは人なつこくて親切だ。
どの居酒屋も概ね賑わっていているようだし、小さな子ども連れで食べに来ている家族も見かける。外食を好む東南アジアの文化と似ているような…。
日が暮れると外に出て、海風にあたりたくなるのは黒潮文化圏のDNAだろうか。
そういえば沖縄でも、夜に意味もなく外にいる人をよく見かけた。玄関先に椅子を出してぼんやり涼んでいたり、堤防で死体みたいに寝転んでいたり…。
黒潮の道を逆にたどってみたら、紀州人の謎がとけるかも。