熊野古道の中辺路沿い、新岡坂トンネルの近くに妙な案内板があることは知っていた。
運転をしていると毎回うっかり通り過ぎてしまうのだが、「南方熊楠」の文字だけを横目で見て気になっていた。
その日、熊野で取材を終えた帰路、新岡坂トンネルの手前で停車して案内板を覗き込んだ。
「えっ!?」
助手席の写真家さんと、同時に発した驚きの声。
そうだったのか…。
熊楠が裸で腕組みをしている、あの山中裸像とか林中裸像とか言われる有名な、あれ。
この先400メートルの峠で撮影したんですよ、という案内板だったのだ。
「熊楠さんとおんなじポーズでどうですか? わたし撮りますよ」と写真家さんが面白そうに提案してくれたし、気になったので矢印に従って横道へ。
車で上がっていくと狭そうな林道だったので、その日は諦めて退散。
そして昨日、あらためてトンネルの入り口へ。車を置いて熊野古道の山道を一人で登っていくと、20分ほどで現場に着いた。ここにも案内板があったが、あたりは梅畑になっていて撮影当時の面影はなかった。もちろん、熊楠に寄り添っていた大きな木もない。
案内板には写真を撮影した日の、熊楠の日記が記されていた。
「一月二八日朝八時頃起き。辻氏感冒平治の由ゆえ、午下家を出、同氏を訪い共に横手八幡(写真とる)より三栖千法寺、それより岡に出、途中松グミ生たる松の下に予裸にて立ち喫煙するまま写真。岡の八上王子及中宮写真、それより岩田大坊、松本神社写真、黄昏なり、朝来入口にて丸で淡昏くなる。それより新庄を経帰る。予脚絆はくを忘れ脚はなはだ痛む。」
山中裸像は神社合祀令による森林伐採に反対するための、パフォーマンスとして撮影されたという。熊楠は明治43年1月28日、この峠の「松グミ生たる松の下」で「裸にて立ち喫煙するまま」の姿を撮影。その後、八上王子や岩田神社などを巡って森を調査したようだ。日帰りで往復するには結構な距離である。「脚はなはだ痛む」のも当然だ。脚絆(きゃはん)とやらを、もし忘れずに履いていたとしても足は痛くなったはず。
中辺路をあとにして、南方家の菩提寺である高山寺に立ち寄る。和歌山市で生まれた人でありながら、田辺の城下町をたいそう気に入って住みついた熊楠。「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、風景気候はよし」と田辺をほめた。和歌山市民としては少し残念であり、ねたましくもあり、納得もする。奇想天外で異能の「よそ者」を排除せず、その真価を見抜いたのは田辺の人たちだったということ。熊楠先生の墓は、田辺の市街地と海を眺めるように立つ。