古座街道(1)のいちご葉寿司
紀伊半島の海沿いを南下していく熊野古道・大辺路。その途中、上富田町朝来(あっそ)から山間部に入って古座に至る道を古座街道と呼ぶ。古くは田辺の呉服商や富山の薬売り、巡礼者などが往来した主要な生活道だったとか。
すさみ町佐本の集落を車で通り抜け、さらに奥の深谷地区へ。数えるほどしか民家がない小さな集落だ。
今回のメンバーは某おきらく登山部の部員、私を含めて3人だ。予定のコースは古座街道の一部にあたる「田鶴横手・佐本渓谷周遊コース」8.5キロである。
車を降りて準備していたら、「古座街道歩くんかぃ?」とおばあさんが話しかけてくれた。「ほなまぁ、気ぃつけて」と見送ってもらって機嫌よく歩き出す。
最初の坂道は矢五郎坂。矢五郎さんという落人にまつわる伝説が残る坂道だ。深谷と地名が付くほどの山間部だから、平家の落人もこっそり隠れ住んでいたらしい。
「炭焼きが盛んだった頃、佐本の女性が炭俵を担いで矢五郎坂を登り、田鶴横手から福井谷へ下った後、古座川筋の長追へと歩いた道であり、往年には、行者や巡礼者も先を急いだ道でもある」(『熊野中道 古座街道 増補改訂版』平成26年 小板橋淳 著より)
確かに、炭焼き窯の跡はいくつもあった。地元の方によると、昭和30年代まで炭焼きさんが点々と小屋がけをしていたそうだ。 炭を運んだのは炭焼きさんの妻や、日雇い仕事で請け負った女性たちだろう。
なだらかな登り道が続く。日当たりがいいし、自然林が多いのも魅力だ。
下の写真はゴーラと言って、木の切り株をくりぬいて作った巣箱だ。ニホンミツバチがここに巣を作って蜜を運んでくれたらしめたもの、という仕掛けなのだが「これが意外と入ってくれへんのや」と聞いたことがある。
ゴーラはあちこちで見かけたが、この時はまさか、ゴーラから取り出しホヤホヤの蜜が見られるとは思っていなかった。数時間後、我々は意外な状況で蜜を目にすることとなるのだが、その話は次回に。
途中、水源に祀られたお大師さんや、お地蔵さんなどがちょこちょこと現れて雰囲気たっぷり。
三体並んだお地蔵さんは二体が江戸時代、一体が明治時代のもの。
峠の分かれ道には杉の大木があり、ここがすさみ町と古座川町の町界になる。 スタート地点からはだいたい3キロ。山桜も咲いているし、風は爽やかだし、無理な登りはないし快適なことこの上ない。
見晴らしのよい尾根でお弁当を広げる。「道の駅すさみ」で買っておいた「のいちご葉寿司」である。 パックには「葉っぱを取りながらお召し上がりください」と書いてある。
葉っぱをめくると、こうなる。(真ん中と底にも硬い葉っぱがある。初心者は上だけめくってかじってしまうと思う)
押し寿司はこの地方の郷土料理で、そもそもはハレの日のご馳走だ。数年前、串本町の田並という集落に取材に行ったときに、海辺の家の座敷でご馳走になった記憶がある。
「のいちご葉寿司」はたいへん美味なのでおすすめ。また「いも餅」も道の駅すさみの名物だ。私も見つけたら絶対に買うのだが、土日しか売っていないので残念ながらこの日はなし。
いも餅とは、さつま芋を練りこんだ黄色い生地に、あんを包んできな粉をまぶしたお団子。決して豊かではなかったはずの山間部で、受け継がれてきた素朴なおやつだ。
かつて、この地方で白い餅は滅多に食べられなかったという。祭りの日は若い衆が家々をまわり、”ホテ打ち歌”なるものを歌う風習があったそうだが、訪ねた先で「いも餅」を出されると 「いくらくれても いも餅いらな。一つくだんせ白い餅♪」と嫌味っぽく歌ったとか。 高速道路が開通し、道の駅で「いも餅」が観光客に大人気になるなど夢にも思わない頃の話である。
ここまで熱く書いて「いも餅」の写真がないのもアレなんで、後日購入して撮影。
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「のいちご葉寿司」を食べながら、「野苺の葉なんて見たことない」と話していたら、友人が「うわ、これとちゃうん?」と足元を指差した。「これやん!」と気づいて見回すと、あたりは野苺の葉だらけだった。
私が前回このコースを歩いたのは、 和歌山県の観光情報誌『紀州浪漫』の取材だった。春号の特集で古座街道の佐本渓谷周辺を取り上げ、記事を担当させてもらったのだ。
取材後にプライベートで歩くこの展開、『紀州浪漫』の裏バージョン「奇襲浪漫」でいかがでしょう。 みうらじゅんの「勝手に観光協会」みたいなのをイメージしていただければ・・。
「奇襲ろまん」にします。画数多すぎるから。