中辺路町高原〈4〉針地蔵さんのご詠歌
里のみち
熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。
またしても、高原(たかはら)。
ここからの眺めは、季節ごとに趣きを変えるので、毎回やっぱり見とれてしまう。7月の棚田は、育ち始めた稲が強い陽射しを浴びてキラキラしていた。夏だね。
地元の方々との待ち合わせ場所は、高原(たかはら)の集会所。中に入ると畳敷きの大広間があって、大きく開いた窓一面に果無山脈が望めた。なんて、すばらしい眺め。
「絶景の集会所ランキング」がもしもあったら……。ないか。
話を聞かせてくださったのは、高原にお住まいの大江幸(みゆき)さんと、鈴木トシ子さん。大江さんは高原の若手で65歳、鈴木さんは88歳だとか。高原では住民の半分ぐらいが80歳以上。かつては100軒を超える家があったが、今は40軒ほどだという。
「高原のことを教えてください」とお願いすると、大江さんがあれこれと資料を見せてくださった。中に、地元の方々が作った郷土の冊子もあり、ページをめくっていると那須亀太郎さんのお名前も発見。庚申さんが光っているのを見たという、例の!
高原地区のお地蔵さんや祠の配置図もあった。高原には地蔵さんなどを祀った祠が点在しており、それぞれ違う歌詞のご詠歌が掲げられている。
「ご詠歌っていうのは、いつ歌うものなんですか」と尋ねると、
「2月24日に地蔵さんを順番にまわって歌う。女の人らが歌って、男の人らが餅まくん。大日さん、庚申さん、夫婦地蔵さん、針地蔵さん、焼け地蔵さん、栖雲寺(高原のお寺)の水子さん、無縁さん…お供養はいっぺんにやる。昔はもっと色々と行事もあったんやけどな。この頃みんな年寄って足悪なってねぇ」
「お寺には無縁さんもいっぱいあるよ。400ぐらい。行き倒れになった人、身元の受け取りのない人、家族がおられん人のお墓が山の中にバラバラにあったのを集めてきたの。山の奥のあちこちにあったら参りに行けやんから、昭和48年にみんなで集めてきて、洗ろうて、供養したんやけど、私らはずっと無縁さんにもご詠歌をあげてます」
思わず「すごいですね」と声が出た。
「なぁんも、すごいことらないよ。みんな当たり前のように供養してきたん。昔からずっと、決まった日が来たら、これして、あれして、ってしてきただけよ」
「そうですか……」
「ご詠歌を歌ってみてもらえませんか」とお願いすると、「どれがええ?」と聞かれたので、とっさに「針地蔵さん」と答える。
「ほんまに下手なんやで」と照れつつも快く歌ってくださった。
みゆき道とは御幸道、熊野古道のこと。熊野古道を行き交う旅人たちを守っている情けの深い地蔵さま、という意味の歌だと思う。
針地蔵さんも情け深いかもしれないが、高原の人たちも情け深い。熊野詣での人たちの安全を、自分の事のように願う気持がなければ、このような歌もお地蔵さんもなかったはずなので。
針地蔵さんは、歯痛を治してくれる地蔵さんとしても信仰を集めていて、お願いをして歯痛が治ったら、針で鳥居の形をつくって奉納したそうだ。
また、焼け地蔵は、山中の炭焼き小屋で焼け死んだ3人の子どもを供養した地蔵さんで、夜に赤子の泣き声が聴こえてくるためにお地蔵さんを置くことになったそうだ。その後、誰も通らない山奥で祀る人もなくなり、可哀想やということで、高原に運んできたのだという。
もうひとつ興味深かったのが、雨乞いの話。
話は飛ぶが、高原には、有名な外国人女性が移住されている。数年前の昼下がり「徹子の部屋」で偶然に彼女を観たのだが、その時、集落の雨乞いに呼ばれた話をされていた。お寺に集まってみんなで輪になり、大きな数珠をまわしながら念仏を唱えたそうで、「ほいたら雨降ったんですわ」と。
テレビの前で私は、かなりな衝撃を受けてしまった。雨乞いをしている集落が、今も和歌山県にあるなんて……。鈴木さんにその話を尋ねてみたら「そうそう、あの人も雨乞いに来てくれてなぁ。ほいたら雨降ったんや」と面白そうにおっしゃった。ちなみに最近は田んぼを作る人も減り、水に困ることがないので、雨乞いは必要なくてやってない、とのことでした。