2013年6月21日

本宮町大瀬〈5〉読者からの言葉

里のみち

熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。

大瀬の4話目を書いた3日後、記事にコメントをいただいた。
喜んで読んでみると、投稿してくださったのは大瀬出身で、『古里の記』の著者・前久保國一さんの親類にあたる男性。

ドキドキしながら投稿を読み、私たちがイメージしていたとおりの大瀬の様子に感動したり、ちょっと切なくなったり…。

大瀬は、昭和 30年代半ばまでは観音堂を中心に、里山と段々畑に囲まれ、あちこちから子供たちの声が聞こえていました。観音堂の庭は、子供たちが野球(ここで?)をし て遊ぶ場所でした。時間軸の無いような空間、平安も江戸も明治も「むかし」で一括り。ここでの文明開化は、明治ではなく電燈の灯った昭和30年かも知れません。
地元のオバサン達の話にもありますが、母親たちは過酷な環境下で働き、子育てをしてきました。
賑やかな盆踊り、祭り、音、香り、大瀬の情景は、絵として私達の心に貼り付いています。親の語る昔話は、テレビなど無い時代の 楽しみで、神様、オオカミ、河童、なんでもありでした。
まんが日本昔話の龍に乗った「坊や」は、私達自身かも知れません。しかし、時々「あれは幻だったのか?」と思う程の変わり様、ふるさとは地理にあるのか、心にあるのか・・・。

私たちは、平の集落があった場所も歩いているし、観音堂にも行ってみた。
「あれは幻だったのか?」という気持が、少しわかるような気がする。

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文:北浦雅子