本宮町大瀬〈3〉初めての大瀬(後編)
里のみち
熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。
大瀬は平家の落ち武者が住みついた集落だと言われ、一風変わった盆踊りが受け継がれているそうだ。両手にバチを持ち、太鼓を叩きながら踊る「太鼓踊り」で、平家一門の冥福を祈って奉納されてきたという。盆踊りの会場は公民館(かつては馬頭観音で執り行われていた)と聞いたので、探してみたがそれらしい建物はない。(っていうか、建物がほんの数軒しか見あたらない)
山肌に急な階段が目についたので上ってみた。どうやらここが公民館のよう。
覗き込むと畳敷きの座敷がひとつ。壁には「太鼓の叩き方」と書かれた紙が貼られていた。盆踊りができるほど人が住んでいるとは思えないのだが……。
集落を見下ろしながら、あれこれと思いをめぐらした。
前久保さんが書かれていた「夜這い」のこととか。
かつて大瀬では、若い男たちが娘のいる家へ忍び込んでも、親はあまり文句を言わなかったそうだ。日頃は気難しい親父さんでも、黙認してくれた。なぜならば、もし自分たちが病気になったら、医者に行くにも本宮か請川あたりまでは乗り物がない。若い方々に駕篭で担いでもらうなど、世話になることもあるだろう、という気持があったから。
そして、理由はもう一つ。
「もし娘さんが種をつけられても決して心配することはない。子どもが生まれてごそごそ這うようになった時、男が一人であれば文句はないが、多数の場合は子どもを中に置いて男が車座になって子どもに這い上がられた男を親に決めた」(『古里の記』より)
思い出したのだが、似たような話は古座川沿いの集落にもあった。あちらでは、身ごもった娘さんが、関係した男たちの中から「あんたの子や」と指名する。指名された者は、それを受け入れて父親としての義務を負う。(と、いうようなことを司馬遼太郎さんも書いていました)
こういう場合、「隣の家で育っているあの子は、もしかしたら自分の子かもしれんのやが…」という事も起こりうる。
「子どもはムラで育てる」という共有された考えがあったのだろうし、男性は女性の妊娠、出産、父親の指名に口をはさむ余地はなかった。
女性的な価値観を重んじて、コミュニティを調和させる。そういう縄文的な思想が日本中から消えたあとも、紀伊半島の山間部には最後まで残っていたのかも。
過剰な妄想にまみれていたら、突然どこからかチャンカラチャンカラと派手な音楽が聴こえてきた。移動販売のトラックが集落に入ってきたみたいだ。時刻は17時15分。
財布を手にしたおばあさんがひとり、ゆっくりした足取りで家から出てくるのが見えた。