2013年5月4日

本宮町大瀬〈2〉初めての大瀬(前編)

里のみち

熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。

本宮に行く途中で、少し回り道。
「大瀬」の標識を見て、旧国道へ。すでに生活道路としても使われていないらしく、落石や雑草で荒れている。ガリガリと石を踏み飛ばしながら気合いで走った。

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道はまた現在の国道と合流し、ふたたび旧国道へと分かれていく。大瀬トンネルの脇から、四村川に沿って行くと、細い道の両脇に数軒の家が並んでいた。川と山にはさまれた狭い土地に、へばりつくように……。で、ほんの数秒で走りぬけてしまった。

大瀬の風景大瀬の風景2

え? 今のが大瀬?

車をおりて橋の名を見ると、欄干に「観音橋」と刻まれている。
やっぱり、ここが大瀬だ。
川の流れる音と、鳥のさえずりだけが聴こえる。歩いたり振り返ったりしてみたが、人のいる気配はない。橋を渡ると、馬頭観音へ続く階段があったが、その先の車道は草に覆われていた。
橋の向こう側にも人が住んでいたはずなのだが…。
『古里の記』が発行されてから、今年で18年。今、住んでおられるのは、ほんの数人なのかも。

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前久保さんの記録によると、大瀬はかつて、ずいぶん貧しい集落であったそうだ。
狭い斜面に植えた里芋やカンショで飢えを凌ぎ、畑を荒らしにくる猪を追いはらい、夜には細いランプの灯りで、草履や縄を編んだ。山仕事の炭持ちは、朝4時 頃に家を出て、大雪の日は山の中をすべりながら帰った。大正時代には足袋がなくて、草履ばきだったから冷たかった ——

「このような苦労を、我々の先祖はみんな味わった。今の時代には考えられんような辛抱がある」

「苦労に苦労を重ねて、我々を養ってくれた」という祖先を想うと、書き残さずにはおられなかったのだろう。
ちなみに大瀬に電灯がついたのは昭和30年8月15日、そして34年、集落の2戸にテレビが入った。そのうち各家からカマドが消えてガスに変わり、重い薪を背負うこともなくなった。52年には待望の電話がつながった。

「この山中で住んでいても結構な暮らしになった」
と、しながらも手放しで喜んでいるふうでもない。「祖先に申し訳ないと思いながら書いてみた」との一行が最後にあったので、私は少し考えてしまった。祖先の苦労に想いを馳せる気持が、自分にはあるだろうか。
「私は」なのか、「私たちの世代は」なのかはわからないけれど、血脈の中を生きている感覚がとても希薄だ。

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文:北浦雅子