中辺路町兵生〈4〉朝来平を訪ねて
里のみち
熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。
朝来平。「あそだいら」と読む。兵生(ひょうぜ)の皆さんが集団で移転してきた住宅地で、国道311号線に近い中辺路町川合地区の高台にある。(上の写真は高原の集落から見下ろした朝来平です)
話を聞かせてくださったのは西みき子さん91歳と宮原材次(さいじ)さん80歳、そして西義友さん74歳。皆さん兵生の元村民で、身内でもありご近所さん。「兵生のもんはだいたいみな血ぃは繋がったぁる」そうで、材次さんはみき子さんの弟さんだ。
(ちなみに紹介してくださったのは、高原の鈴木トシ子さん。西みき子さんと鈴木トシ子さんはご詠歌のお仲間だそうです)
兵生の里は40年前まで、熊野古道沿いの福定(ふくさだ)から徒歩で2時間もかかる山中にあった。車道ができたのは昭和30年頃のこと。「それまで生活物資などの運搬はどうされてたんですか」と尋ねると、トロッコの古い写真を見せてくださった。
かつて、兵生の坂泰(さかたい)という地区に営林署があり、福定から坂泰まで林用軌道(森林鉄道)が通っていたそうだ。開通は昭和5年頃で、木材や物資はトロッコで運んでいた。おかげで兵生の人々は、荷物を担いで山を越える労働を他の集落よりも早く終えている。みき子さんも「荷持ち」をしたことはないが、母親から苦労話を聞いたとか。弟の材次さんが、茶目っ気たっぷりに語ってくれた。
(後ろで鳴いているツクツクボーシも必聴。私たちが声をあげて笑ったとたんに張り切って鳴き出した。ヒトとセミの振動交信? 以下、材次さんの話を少しかいつまんで書きました)
「営林署の軌道ができる前は、川向かいの、人が歩く道を、炭焼きさんが焼いた炭をみんな2俵(1俵は15キロ)か3俵、背負うて歩いた。うちの母親は朝まだ暗いうちに提灯を持って、炭を2俵おうて、途中まで提灯の灯りで歩いて、夜が明けたらそこらの木へ提灯かけといて、福定に出てきて炭をおろして、帰りには上りの荷(味噌、醤油など)を背負うて上っていって、途中から提灯を持って帰ったという話を聞いた。母親はそんな苦労した」
集団移転の話が持ち上がったのは昭和47年のこと。若い世代が子どもの教育のために次々と兵生を出ていき、後に残った26軒で相談を重ねた結果、朝来平への移転が決まった。が、初めから誰もがすんなり同意したわけではない。先祖から受け継いだ土地を、子孫が荒らすわけにはいかんという強い想いを持つ人も多かった。
「今みたいに機械で耕した土地やない。みな手ぇで耕して田んぼにしたんやから、先祖さんの苦労を思たらなかなか出てこられへんよ」とみき子さんが言うと「そうやのら」と義友さんが頷いた。昭和49年の移転に向けて御先祖さんの墓も掘り返し、骨をひろって墓も移したそうだ。「土葬やから、土ん中にみな座ったぁるやろ。そらもう、穴も深い、深い!だいぶ掘らなんだら」と材次さん。
話を聞きながら、私は少し前に行った兵生の風景を思い出していた。荒れた道、つぶれた家、川沿いの石垣、朽ちた吊り橋………。
「兵生って、ずいぶん奥ですよね。あんなに山奥だとは思わなかった」と思わず口走ると、「そらまぁ」と材次さんの声にも力がこもる。
「昔、人がおる時やったら、こんな山の中とは思わんけど今はもう…」
「(朝来平へ)出てきてから奥へ行って、自分の住んでたとこへ行ったら、なんと、こんなとこに住んどったんと思って自分で不思議な」
「おれら子どもの時な、よその人ら来るやろ。こんなとこに何楽しみあんのなってみんなぁ聞く。返事すんのに困った」
夢のあとのような廃村に、ぽつんと鎮座する春日神社。皆さんは毎年欠かさず、秋になると兵生に戻って祭を執り行っている。40年も。
「氏神さんへの信仰があついんですね」と言うと、義友さんが少し間をおいてからこう答えた。
「昔から兵生っていうところは里、いい社(やしろ)のある里やった。そういうところでずぅっと歴史を守ってきたもんでね、今でもやっぱり行かな…なんて言うか、寂しいからな」
「春日さんっちゅうのはな、兵生のはじまり」
松若伝説についても聞いてみたら、みき子さんがふふっと笑って教えてくれた。
「松若さんか? 松若さんが生まれたんは兵生の張安(はりやす)っていうとこや。生まれたときから、歯ぁはえてたって言うわな。一人で山の中へ入って、親 と離れて棲んでた。岩の中は六畳ほどの広さがあるって言うたわな。わたしも入り口まで行ったけどな。松やにを体にぬって獣とって食べて、裸で塩だけもらい に来るって言うたわな」
今年もまもなく兵生の里の秋祭り。義友さんは太鼓を叩き、笛や獅子舞もあるそうだ。